物語>新聞なのはなぜか?
- 2019/12/12
- 01:02
日本の子ども達の読解力が落ちているとの報道ですが。そこで更に導き出されたのは、
「物語や小説を読んでいる子のほうが、新聞を読んでいる子に比べて読解力が上」だという分析結果だったようだ。
その理由について巷ではあまり突っ込んだ意見を今のところ目にしていないのだけど、かぶらは読書については以前から確固たる持論が。

読解力とは「情報を自分で取りに行く力」である。
これは自分が長年読書をしてきて思うことであり、とま子や他の子ども達を見ていて確信したこと。
図書館でも本屋さんでも、ありとあらゆる種類の本があるわけで。その中からあれこれ探して、ピンと来たものを腰を据えてじっくり読む。そう「出かけて」「膨大な情報の森に足を踏み入れ」「そこからたった数冊、コレ!と思えたものを拾う」…読書という作業はページを開いて読むことからスタートするのではなく、すでにここから始まっているのだ。
物語はさらにその独自の世界へと強烈に引き込む力があり、その興奮を覚えたらもっと「探しに行きたくなる貪欲さ」が生まれる。
一方、新聞は?
毎朝決まった時間に決まった量で自宅に届けられる情報。確かに色んな情報は載っているんだけど、知っておきたい新鮮な時事情報が載っているんだけど…「森」じゃない。何ページにどういうジャンルの情報が載っていて、といういわば地図があるわけで、小さな街を地図を持って歩いているような感覚というべきか。
そして、それらの情報は「確認するモノ」であって「没頭して熱中するモノ」じゃない。
そこに一番大きな理由があると思うのだ。
物語が好きな子は自ら常にアンテナを張っていて、面白そうな本の「ニオイ」を嗅ぎ付くやいなや無我夢中で探し出す。自分の足と手と目と耳を活用して。
じっと待っていれば届く情報じゃない。
実際に自分が体験していてすごく思うことなんだけど、文章が長文であるほど「探すアンテナ」の強度が増す。それはまるで、膨大な蔵書の図書館の中から、今の自分にピンと来る本はどれなのかを探し出そうとする感覚と同じなのだ。
物語が好きな子は情報に対して「能動的」。新聞メインの子はそれよりもやや「受動的」。
…端的に言えばそういうことなんじゃないかと、かぶらは確信している。
次回はこの流れの続きで、「電子機器による読書・勉強」について考察してみようかと…☆
※今回の内容はTwitterでも発信予定♪(/・ω・)/ ♪